ブログ行けるときに、行きたいところへ

暑中お見舞い申し上げます。
40度を超える暑さを「酷暑」と呼ぶそうです。名付けた人は、きっと涼しい部屋にいたのでしょう。ミンミンゼミの声さえ、心なしか夏バテ気味に聞こえます。

さて、私は7月4日、コペンハーゲンから羽田に到着しました。圧迫骨折で入院中の夫を見舞い、翌日には早くも機上の人となりました。次の行き先はメルボルンです。北のコペンハーゲンから、冬の南半球へ。気温差はおよそ20度。乗り継ぎというより、体感温度の乱高下でした。

メルボルンは2度目です。事前のリサーチはほぼゼロ。頼みの綱はChatで、「聞けば何か言ってくれるだろう」という謎の信頼感だけを携え、事前に購入したeSIMを起動して空港バスで市内へ向かいました。バス停から徒歩数分の宿を選んだのは、大正解でした。到着して最初に思ったことは二つです。寒い! そして、高い! 空港バスには、まさかの暖房が入っていました。

私の頭の中では、1豪ドルは長らく80円のまま止まっていました。それが今や約120円。コペンハーゲンに続き、メルボルンでも円安 -つまりは日本の購買力の低下-を思い知らされました。

そこで、すみやかに作戦を変更しました。ランチは学会会場でしっかりいただき、残ったサンドイッチは夕食用に持ち帰ります。コペンハーゲンの学会より食事が豊富だったことは、思わぬ幸運でした。自己防衛用に持参したインスタント食品も、静かに任務を果たします。それでも滞在の終盤、どうしても米が恋しくなり、ついにタイ風焼き飯をテイクアウトしました。お値段は約2000円。この一皿にそれだけの覚悟を決めた自分を、少し褒めてやりたいと思います。

メルボルン市内中心部のトラムは無料です。「どうしてもここへ」という目的地もなかったので、無料や格安の博物館を探しながら、ひたすら街を歩きました。すれ違う人々の顔ぶれは実に多彩です。チャイナタウンがあり、コリアンタウンがあり、タイ、インドネシア、ミャンマー、インドなどの料理店が街のあちこちにあります。移民によって形づくられてきた都市であることが、歩くだけでよくわかりました。

なかでも印象に残ったのは、州立図書館の展示で知った、1860年代以降、「アフガン人」と呼ばれたラクダ使いたちが、オーストラリア内陸部の開拓を支えていたという歴史です。彼らの多くは、現在のアフガニスタンだけでなく、パキスタンやインド北西部などから来ていました。ラクダで物資を運び、探検や電信線、鉄道の建設を支えながら、当時の制度のもとでは家族を伴って定住することを認められなかった人々でもあります。それでも、先住民の女性と結婚し、その土地に暮らし続けた人もいたそうです。

歴史は、年表の上だけにあるのではありません。街の名前や食べ物、人々の顔、鉄道の由来といった、何気ない日常のなかに残っています。旅の面白さは、そうした見落とされがちな歴史に、不意に出会うところにもあるのでしょう。

思いがけない出会いは、ほかにもありました。イアン・ポッター・センターで、オーストラリア先住民音楽の草分けとされるバート・ウィロビーさんのライブに居合わせたのです。先住民ロックバンドNo Fixed Addressの創設メンバーで、代表曲は「We Have Survived」。恥ずかしながら、現地で調べるまで存じ上げませんでしたが、「知る人ぞ知る」というより、知らないこちらが恥ずかしいほどの方だったようです。ライブのあとには、ちゃっかり一緒に写真まで撮っていただきました。

コペンハーゲンでもメルボルンでも、支払いは非接触型のクレジットカードがほとんどでした。結局、両替は一度もしないままでした。

メルボルンから帰国したのは7月13日。その翌日、夫が退院しました。

体を曲げられず、ひねることもできません。しばらくは、ほぼ介護生活です。お風呂用の椅子、腰を支えるクッション、マジックハンド。これまで縁もゆかりもなかった品々が、次々とわが家にやってきました。漠然としか考えていなかった「老後の介護」が、急に具体的な輪郭をもって目の前に現れました。

そこから得た教訓は、二つです。

元気なうちに、行けるときに、行きたいところへ行く。
そして、日本にいるときは、夫にもう少しだけ優しくしておく。

以上。

お問い合わせContact us

当社へのお問い合わせはこちら

お問い合わせフォーム